全学の総意で決めた「楓」
国士舘が麻布笄(こうがい)町(現在の南青山)から、世田谷の松陰祠畔に移ったのは1919(大正8)年。そして、その前年、国士舘創設の同人たちは揃って松陰神社に詣でています。激動の幕末期、思想家、教育家として峻烈な生きざまを貫き通した吉田松陰に寄せる彼らの崇敬の念は深く、新生国士舘を松下村塾の系譜を継ぐ学塾に育て上げたいと請い願ったのです。社の境内には大和魂を表する桜樹と、松陰の熱き血潮を彩った楓の古木があります。国士舘高等部(現在の大学の前身)建学式の朝、初代舘長であった柴田德次郎は、朝日を受けて真紅に映える楓を見て松陰の赤心に思いを致し、胸中ひそかに楓を校章にと意を決したといいます。1920(大正9)年の春になって柴田舘長は、その思いを国士学生会(学生の自治組織)に諮り、学生会もまたこれに賛同し、全学の総意によって、校章は「七生報国の士を象徴する七片の楓葉」と決まったのです。
校歌・校章
校章
国士舘舘歌
作詞 柴田德次郎/作曲 東儀鉄笛
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霧わけ昇る
陽 を仰ぎ
梢に高き月を浴び
皇国 に殉 す大丈夫 の
ここ武蔵野の国士舘
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松陰の
祠 に節を磨 し
豪徳の鐘気を澄 す
朝な夕なにつく呼吸 は
富嶽颪 の天の風 -
区々
現身 の粗薪 に
大覚 の火を打ち点 し
三世十方焼き尽す
至心の焔 あふらばや